プロフィール

1962

11月20日生まれ

安佐北区白木町志路にて農家の長男として生を受けました。

当時の記憶は殆どありませんが、人口よりも害獣のほうが多いような地域です。昔は庄屋さんだったとの事で、県道からの入り口には木原橋があったり木原口との表示があったりしたことを微かに記憶しております。

幼稚園は、かおる幼稚園(西区)に通園していました。

昭和40年には故郷から中区に引っ越したのだと思います。その時期に父親が農業に見切りをつけ、個人事業主としてマルコシを創業し昭和46年に法人化しました。事業内容は主としてLPガスの販売や配達で、当時は都市ガスがまだまだ復旧していなかった時代だったため、夫婦二人三脚で頑張っていたと思います。

1969

広島市立白島小学校

広島市立白島小学校に入学し、人見知りな私は上級生たちに連れられて登校するのがとても恥ずかしかった記憶があります。

しかしながら6年生時には担任教諭の勧めもあり体格も良かったため、初代応援団長を拝命し少しだけ活発になったかもしれません。

1975

広島市立幟町中学校

広島市立幟町中学校に入学しましたが、近隣3小学校が一緒になるため各学年40名強の生徒が9クラスあり、少子化の現在では考えられないマンモス校でした。

クラス委員をしながらバスケット部に入部し、1年生から試合に出場させてもらいました。

3年生には副キャプテンとして何故かファンクラブまで出来てしまい、妹の同級生からプレゼントまで…。そして卒業式では舞い上がってしまい、公立高校入試を控えた身でありながら、学生服の全てのボタンをプレゼント?した情けない記憶もあります。

1978

広島工業大学付属広島高校

残念ながら体調不良のため志望校に合格できず、泣く泣く広島工業大学付属広島高校に入学しました。前年度まで広島市において唯一の私立共学校でしたが、私の入学年次から男子校となってしまいました。現在は少子化の影響か、中高一貫校の共学になっているみたいです。

やはりクラス委員をしながら、バスケットボール部に入部しましたが、付属高校の為に大学生が使用しない時だけの練習時間の為、強くなれるはずもありません。特筆すべき思い出もなく3年間を過ごしました。

中学校までは親から幾ばくかのお小遣いをもらっていましたが、高校入学と同時にその制度が廃止となり、仕方なく必要に迫られてアルバイトを始めました。平日は授業+クラブ活動があるので、20時から22時までの就業時間です。

当時の時給は高校生が\380、大学生でも\430でした。毎日\760を稼ぐために自転車で歓楽街の居酒屋に通いました。日曜・祝日は10時から20時までの10時間で\3,800でした。それだけでは楽しい学生生活も送れず、欲しいものも買えないので、夏休みなど長期休暇は鳶職のアルバイトに明け暮れました。

大変な重労働で高所作業ですが、当時の日給は\8,000…、やっとバイクも自分の力で買うことができました。

高校生活後半は新築中のマンションでユニットバスの組み立て補助をしていました。日給は同じですが、人数を集め手配師としての手当が余分にもらえるからです。自分一人の労働力の限界も理解し、何となく商売の仕組みも朧気ながら分かってきたのかもしれません。

1981

九州共立大学

大学受験も高望みか思うようにいかず、早々に浪人生活を決め込んでいました。しかしながら一応進学率92%の進学校だったため、担任教諭は次から次へと受験可能な大学案内を持ってきてくれます。最後に持ってきてくれたのが私立九州共立大学の受験申込書でした(広島カープのエース大瀬良投手の母校です)。3次試験の日程は3月28日で本当に年度末です。「4月からは学校も始まり、住むところもないのに無理でしょ…」、と内心思いながらも担任の顔を立てて?福岡まで新幹線に乗りました。

…とは言え、入学するつもりもなかったし、観光気分で革ジャンにジーンズ・皮のネクタイで試験に臨みました。

何名か受験生はいましたが、工学部建築学科は私一人でした。午前中は学科試験、午後は面接でしたが、建築家志望は1名なので1番です。

面接官の質問は「筆記試験はできましたか?」

それに対しての答えは「今までの受験校に比べて超簡単だったので各科90点以上です」

更に面接官「確かにそれくらいの点数ですね、君は合格したら一生懸命勉強しますか?」

私「そりゃ入れてもらえるなら頑張りますよ」

面接官「よし、合格だ!」

まるでコントみたいなやり取りです。帰りの新幹線の中でパンフレットを読み返してみると、同一敷地内に九州女子大学・短期大学があることに気づきました。大して気にもしていませんでしたが、3月30日に入学書類が速達で送られてきました。そして入学の意思があれば31日の消印有効で返送との事でした。入寮申込書まで同封されており、少しだけ考えましたが、もう1年間親元で勉強するのもアホらしく思えてきて、本当にギリギリで入学となってしまいました。

それから慌てて家財や家電を揃え自分のバイクも積み込み、父親と社員の3人で会社のトラックに乗って福岡県へ向かい古ぼけた寮に到着しました。

寮監のおじさんからは開口一番、バイクは危険なので持って帰ってください…。

それから古い建物で電気の容量も少ないので、テレビもドライヤーも電気毛布もお持ち帰りください、見る限りラジオだけは大丈夫です…と、死刑宣告みたいなものです。

殆どのものがトラックから降ろされる間もなくとんぼ返りとなってしまいました。

ふてくされて板のベッドに寝そべりタバコを吸っていたら、同室の子のお母さんから、先輩ですか?どうぞよろしくお願い致しますと挨拶される始末…。 

1年の入寮期間を終えるのを待ってアパート暮らしとなるのですが、ここで問題発生です。春休みの間に親から預かっていた敷金・権利金・前家賃が、全てパチンコ屋さんに預けてしまう結果となりました。

新学期が始まっても友人宅へ居候し、夜はアルバイトの毎日となりました。当時の時給は\500で食事付き、毎日18時から24時までで\3,000です。

仕事の内容は歓楽街にあるキャバレー・クラブ・アルサロなどのチェーン店です。その中でホール係や呼び込みをしながら話術?を学びました。ホールでは酔客をおだててチップ、カラオケを歌ってまたチップ、呼び込みでは酔客を騙して入店させ一人につき\500の手当と既に普通の学生ではありませんでした。

他店からの引き抜きもあり、時給も上がりますが女性の出勤管理や送迎までと完全に道を踏み外してしまいました。

結局4年間で単位が不足し、留年か自主退学を迫られました。文系の友人は要領よく卒業していきますが、理系の私はそうはいきませんでした。卒業設計や実験データ不足で全ては自己責任ですが卒業は絶望的です。

最終的に中退を決意し、東京の就職先を世話してもらいました。

1985

(株)東京ホーム販売

物事をあまり深く考えない性格の為か、大学中退の負い目も忘れ、何となく浮かれて東京都狛江市にて生活することとなりました。

コネ採用の新人のつもりでしたが、初日から驚かされることとなります。(株)東京ホーム販売という会社で社員は10名足らずでしたが住宅にかかわるすべての職人が常用雇用という一見非効率な不思議な会社でした。

一般的には下請け協力会社を持ち、受注があれば発注するのが当たり前です。しかしながら、この会社は地域密着を掲げ、例えば急に水道管が破裂しても自前で対応できる、どんなご要望でも対応できる体制をとっている稀有な会社でした。

その中で何の経験もない、ろくに勉強もしていない私は何ができるのかと考えますが、初出勤日に話を戻します。

午前五時に玄関ドアが激しくノックされ、鍵を開けると社長宅の飼い犬3匹が競い合うように入ってきました。慌てて支度をし、午前6時に会社を開けてテーブルを並び替え、お茶の準備をするようにとの命令です。
そして職人さんたちが7時に出勤し、各現場のミーティングを終え、8時には現場で作業を開始する流れでした。

何もできない私は、当日の朝になって初めて自分の行き先が決まります。今日は水道屋さんの手伝いと言われると、朝から晩まで穴掘りとなります。今日は屋根屋さんに行けと言われれば、朝から晩まで屋根の上です。そうやって朝六時から夕方五時までが外での実務研修、午後十時まで商品知識や建築工事の流れなど研修時間となります。ちなみに休日は第一・三日曜日の月/2日…。

社長在社時は帰りにくかったり説教で、午前五時までの日もありました。そして就職ではなく丁稚奉公のため、無給でした。必要な出金が発生すれば、その都度お米を買うので\1,000ください、作業ズボンが破れたので\1,000ください…。
こんな生活が2年間続きました。その間、同じような境遇で修業に来ていた子は、ある日突然、小銭を握りしめて新幹線の入場券で岡山まで帰ってしまいました。

私は親のメンツもあり、今まで迷惑かけっぱなしだったのでそんな選択肢はありませんでしたが…、その子の行動は理解できる環境でした。
更にはわざわざ広島から帝王学を学びに来たのだから、友人もダメ、他社の社員との交流もダメ、勉強以外はすべてダメ…、そんな生活でした。

もともと3年契約でしたが、もう大丈夫とのことで2年ですっかりスリムになり広島に凱旋となりました。

木原あい一郎は広島市安佐北区へ戻り活動を開始します。

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